だい26 よるのコスモス
 コスモスのはなをみると、おもす。
わたしはあのとき、たれをっていたのだろうと。
っているひとは、こなかった。いつまでたっても、こなかった。
 わたしは、あてもなくあるして、がつくと、かわべりにたたずんでいた。いつのまにか、れて、うたがうことなく、よるおとずれをっていた。
 くやしくて、小石こいしをつかんでかわげようとして、あぁ、いま小石こいしげたらかわ小石こいしいたいだろうとおもって、わたしは小石こいしあしもとにおいた。
 あしもとにも、よる気配けはいは、しのびってきていた。
 ねむれぬよるは、どんなふうにしてすごせばいいのだろうか。
かわもまた、わたしのこころをなくさめてくれはしなかった。
わたしのむねつように、声高こえたかながれてばかりいる。
 かわおとけようとしてをよじったとき、わたしのに、しろはながとびこんできた。ちかづいてみると、コスモスだった。
 わたしは、けなげにいているはなを、いきなり、むしりとった。
なぜ、あんな乱暴らんぼうなことをしたのか、自分じぶん自分じぶんのしたことがわからない。
 わたしは鬼女きじょになって、はなうらないをはじめていた。
結果けっかは、わかっている。くるはずのないひとなのだ。

それなのに、おしまいにのこったひとひらは「くる」ことになっていた。
 「くる」「こない」の花うらないを、「き」「きらい」におきかえても、のこりのひとひらは「き」になってしまう。
 わたしを「き」で「くる」はずのひとが、現実げんじつには、どうしてこないでしまったの。
 コスモスのはなびらを地面じめんおもいっきりたたきつけたのに、はなびらは川面かわもかってんでいった。
かぜはなびらをはこんでいってくれたのだ。
 かぜは、あき。わたしのっていたのは、あきおとずれだったのだろうか。からっぽのわたしのむねに、おとずれたばかりのういういしい秋風あきかぜが、
「がっかりしないでね」
「きっといいもあるんだから」といっているみたいに、さわやかにいていた。


(昭和六十一年八月 岩手日報夕刊に掲載)